きのうの夕方、見知らぬ30代くらいの男が訪ねてきた。
対応すると、チラシを差し出して言った。
「あの、ご遺言などの作成をされるご予定はございませんか?」
俺、死相でも出てんのか?
脚が浮腫んでんのは事実だが。
「あす、こういう催しを県民会館でやるのですが」
『遺言書作成講習会』
んー……一応今んとこ死ぬ予定ねえし、いきなり死んだからって遺す財産なんかねえわ。
むしろ借金ならあるぞ。すぐに相続放棄しとけ、ばーちゃん。
で、彼はとくに粘ることもなく、爽やかに微笑んで名刺を残して去って行った
『行政書士 H・T』

——そういえば何日前だっけ……俺、市内の行政書士の情報、チェックしたんだわ。
何視たんだっけ……そうそう、いわゆる質問ポータルに未成年の女の子が
『キラキラネームをつけられている女子。普通の名前になりたくて、友達には普通っぽいあだ名で呼んでもらってる。母に[なんで本名じゃなくて、あだ名なの?]と言われて[キラキラネームがいや]と言ったら、父に[せっかくお前のために懸命に考えてつけた名前なのに!]て、ものすごく叱られた。名前変えたい。何歳になったら親の承諾なしでも変更出来ますか?』
あれ視たからだわ。俺も一応名前の変更だけは視野に入れてるんでね。
今さらちんこつけようとか戸籍上性別変えようとか思わんからな。メンタル病むほどの時期はとっくにやり過ごした。俺たちの時代は今みたくぬるい世界じゃなかったんで。
ほぼ100パーセント、キチガイ・変人扱いされる時代だったんで。
俺は病まない方向に。仕事でうつになったけど。……広い意味ではまったく関係なくはないか。「絶対に良い女にしてやるから」って、てめぇ俺の雇用主でたかが喫茶店の店長のくせに余計なことすんな、パワハラのセクハラだぞ、的な。
その後は性別に絡むストレスはなく、無問題。
当時は『無理なもんは無理』。その上で『どこで折り合いをつけるか』。
その『折り合い』が、俺にとっては『名前の変更』。
こんな親都合親目線(命名は祖母)の名前なんか、千切って海に棄ててやる。
第一誰も俺を名前で呼ばんし。名字か、別名か、どっちか。本名無意味。
——って、それでだ。
回答ん中に『15才からおk。お金はかかるけど行政書士に頼むと良い。お金がなかったら法テラスにGO。相談に乗ってくれる』てのがあって、「そっか、行政書士かぁ……」と。
本名と別名を併記した、1997年の文書と、2010年の実印契約書は持ってる。
後はネット通販の納入書とか、年賀はがきや暑中見舞いとか、そーゆうのをコツコツ貯めて。
ばーちゃんには申し訳ねえが、今の名前はダメだ。やっぱし我慢ならん。
余談だが、俺のは『通名』ではない。100パーセント日本国籍だ。

手続きメンドクセーし、行政書士……とも思った訳だが、考えてみたら、俺、別名で20年やってきてんのよね。
むしろ地裁で改名を蹴られる理由が知りたい。
使用実績(経年)が重要なら、証明出来るもん、今すぐにでも。
申立書の難度も低く、年金の方がはるかに、まったく比較にならんハイレベル。
文章書くのを商売にしてた頃もあったが、あんな手強いのは未知の世界だったぞ。おそるべし障害年金申請書。
それを思や、名変更の申立書なんぞ赤子の指を捻るようなもんだわ、

あー、名前変えてえええええぇ。
勝手に押し切っちまおうかな。もうばーちゃんにいちいち言うのも怠いわ。
むしろ関係各所に変更しに行くのが大騒ぎ。まず役所。銀行、保険、郵便局、公共関係、電話回線、プロバイダ、15秒でこれだけ思いつく。
しまった、NHK契約。ちょい待ち、版元。知人その他にお知らせはがき、医療関係一式。
——とゆー具合に、変更したからって手放しで喜んではいられん現状。
当分は走りまくり。

それでも。
今のこの本名のままで死ぬのはいやだ。
それだけはいやだ。
「それだけは絶対にいやだ」からって、それを理由に自殺とか、それこそ不可能な訳で。
だったら、前向いて戦うっきゃねえっしょ。
退路なんかどこにもねえんだ。

多分俺は苦労ねえと思うけどな。戦うってほどのこと、ねえと思う。
『名の変更を必要とする具体的な理由』を書き込む欄があるんだが、ふふん、俺がマジになったら全然足りねーよwww
広さに合わせて手加減してやるけどなw



土曜日、ばーちゃんがデイサーで不在なんで、座卓に書類広げて書く。
日付以外、全部書く。申請に必要な証明書類もまとめておく。
それだけでも精神衛生上よろしい。
『いつでも出せる』のが良い。



これだけは、俺、男子の沽券に賭けて完遂する。



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