きょう、おもろい記事を見た。

ドラえもん、侮れんな。



いつ頃だろうか、覚えてない。もう20年以上古い話かもしれん。
某局某深夜討論番組を視た。普段は「この時間はこれしかねえからなー」くらいの感覚で流していたが、この回だけは視なくてはならなかった。
筒井康隆が出る。いやしくも物書きを目指さんと欲するならば、これを視ずしてなんとする。
障害者を表現する単語について云々言っていた気がする。
気がする、というのは、あまりにもインパクトが強すぎるひと言のせいで、他の記憶が吹っ飛んじまったのだ。

御大「言葉狩りを繰り返していくと、使える言葉がなくなるんですよ」
相手「それでもいいじゃないですか!!」

「それでもいいじゃないですか!!」

「それでもいいじゃないですか!!」

「それでもいいじゃないですか!!」

「それでもいいじゃないですか!!」

「それでもいいじゃないですか!!」

「それでもいいじゃないですか!!」


あまりの暴言に愕然としてしまい、それしか記憶に残らんかった。





*この先、かなりの長文につき「メンドクセー」と思ったら読まんくて良いぞ。





言い換えは簡単に出来る。とくに差別的と言われるもの。
つい先日、そらな師匠と交わしたんだが
「おれは障害者だけど、あえて害を使っていく」
同意。
障がいと開こうが、障碍に置換しようが、中身は同じなのだ。
『障害』という言葉が何かしらの必然によって作られたのなら、無理やり消しても意味はない。
精神分裂病が統合失調症になろうと、躁うつ病が双極性障害になろうと、何も変わりゃせんのですよ。
健常者さんからみれば看板掛け替えたって「きちがいだろ?」で終了。

置換例

(侮辱的な差別はやめよう!)
『めくら』 →『視覚障害者』
『つんぼ』 →『聴覚障害者』
『おし』  →『聾唖者』
『いざり』 →『身体障害者』
『きちがい』→『精神障害者』
『はくち』 →『知的障害者』


(害という字が差別的なので開きましょう)
『視覚障害者』→『視覚障がい者』
『聴覚障害者』→『聴覚障がい者』
『聾唖者』  →『ろうあ者』
『身体障害者』→『身体障がい者』
『精神障害者』→『精神障がい者』
『知的障害者』→『知的障がい者』


(ショウガイシャって見下してる感じだよね)
『視覚障がい者』  →『目が不自由な人』
『聴覚障がい者』  →『耳が不自由な人』
『ろうあ者』    →『言葉が不自由な人』
『身体障がい者』  →『足(など)が不自由な人』
『精神障がい者』  →『心が不自由な人』うそ
『知的障がい者』  →『おつむが不自由な人』うそ


(不自由って、差別的じゃね?)

『目が不自由な人』→『??』



さて、次は何に置換されるんだろう?
言葉は、どこまで排除されていくのだろう?

余談だが、アメリカでも置き換えがあり、障害者を
『Handicapped』→『Challenged』
と言い替えてる。
俺は「重度障害で頑張れない人に対する配慮はねえんだな」と、いつも思う。
なんか、やみくもに前向きを強要するのって嫌味すぎるだろ。



かつて、シナリオライターの嘆きを見たことがある。

「時計が狂ってるって書いたら、よくないと。精神障害とか、そんなニュアンスで。それで、遅れてるに直したら、遅れてるも知的障害を連想させるかもしれないからよくない、早めてくれと。そこまでの配慮は必要なのかな?」

俺も経験あるよ。
「混血児という言葉は、ちょっと……」
出版社はそれぞれ社内コード持ってるからな、引っかかったようだ。
昔は『あいの子』つったんですけどね、それが混血になり、いつしか混血NG。
ちなみに昨今は、当事者たちから「ハーフっていうのはマイナスイメージでイヤだから、ダブルって呼んでほしい」とのことなんですが……

ハーフとダブルって、まったく意味が違うんですが?
てゆーか正反対じゃねえですか、それ。
球技のダブルスは競技者が倍になることだし、アルコール類のロックでダブルと言えば2倍量のこと。
ふたつ足してひとつになるのは『ハーフ&ハーフ』ですよ。
だから厳格に書くなら
「彼はアメリカ人と日本人のハーフ&ハーフだ」
となる訳ですが。
面倒なので略してる訳だが。

ゴメンネ、おぢさんは『ハーフ』『クオーター』で通します。
劣等感に付き合う義理はないからね。読み手を混乱させる言葉は使いたくない。
もし誰かの劣等感に付き合わねばならんのなら、代わりに辞書から『デブ』を消してくれ。
そして今後、俺のことは「ダブル」と呼ぶように。



脱線したから話をすこし元に戻そう。
御大の「言葉狩りを繰り返していくと、使える言葉がなくなるんですよ」というひと言は、よほどのバカでもない限り、その意味が理解出来る。
置き換え続けていったらどうなるのか。
置き換えた言葉がしばらく使われると、それはまた「差別的」と言われ始める。またべつの言葉に置き換えると、その言葉もやがて……となっていき、本来使用されて何の問題もない言葉が無実のまま裁かれていく。
あれが良くない、これが良くないと削り続けていくと、あれを削ったのだから、それも削らないとダブスタになるから消すべきだとか、なんかもう

「入試落ちた、日本語死ね」

という世界。

あ、きっと『死ね』も不快で聞きたくない言葉ですよね。
じゃあ削りましょう。
某漫画のように『シ亡届』『今年の交通事故シ者数』でいかがでしょうか。

そのうち『シが悪印象だ』と言われ、日本語から『シ』が消えるだろう。

(参考:死役所)



ああ、また話があさっての方向に。
御大の
「言葉狩りを繰り返していくと、使える言葉がなくなるんですよ」
という、たいへん判りやすい解説に対して
「それでもいいじゃないですか!!」
と、白痴をさらしたのは!なんと!

弁護士でした。


俺の認識がたしかなら、弁護士は言葉で戦う職業のはずなのだが。
言葉狩りは自身の道具が失われていくことなのだと、何故気づかんのだ。
ああ、司法試験って『知性は不要』の丸暗記試験なのだな。だったら覚えるべきものが減った方が楽だな。
そしていつか『誰でも出来る簡単なお仕事です』になるんだな。

ちなみにこの弁護士、人の顔と名前を覚えられん俺が、一発で記憶した。

フクシマミズホ という人でした。

ええ、今、社会民主党の副党首ですよ。
俺的には『もっとも頭が悪い国会議員候補筆頭』なんだが、きっと国会にはもっと絶望的に頭の悪い連中がウヨウヨしてるんだろうな。
でなきゃこいつが議員で居続けられるはずがない。



Macちゃんの日本語入力、ATOKのバージョンアップやり損ね、そのせいで買い直さねばならん状況になり、貧民の俺は致し方なくツナギとしてGoogle日本語入力を導入してたんだが。
グーグルは、ある意味親切だったね。
『はくち』と入力しても、変換候補に『白痴』がないんだよな。
まあご丁寧に、いわゆる『差別語』が入ってないのだ。
放送・出版コードに引っかかるやつ。
うっかり使ってしまって編集者からお小言をもらうことがないように、という深い気遣いなのだろう。

言葉返せ、馬鹿野郎。俺の道具を勝手に奪うんじゃねえ。
その道具を使うかどうか決めるのは俺だ。

先日、大喜びでATOK passport(クラウドソフト)を始めた。
さすが、日本語IMだねえ。普通に候補が出てくるし、辞書で意味まで表示してくれる。


 白痴:精神遅滞のもっとも重度なものをいった語


だそうです。
的確ですね。素晴らしい。

ATOKは物書きの自由と権利を守ります。



言葉を失うと、文化も失う。
コミュニケーション手段を失う。
伝えたいことを伝えるすべがなくなる。
もし『悪い言葉』『不快な言葉』だったとしても、それを狩ってしまったら、不快なことや悪いことを伝える方法を失ってしまう。
人が生きていく中で、何もかもすべてが綺麗な社会なんか存在しない。美しくないものを伝えるには、美しくない言葉も必要。
それがなくては伝えられない。
不快な、嫌な言葉をどうしても使わなくてはならない報道の現場で、どうやって綺麗な言葉だけで惨状を伝えられる?
あらゆる犯罪や事故の凄惨さをどうやって伝える?

必要だからあるんだ、言葉は。
役目を終えた言葉は、静かに時の中に沈んでいく。
なのに快不快だけで、まだ失われてはならない言葉を殺すのか。
そういう連中は、言葉をいったい何だと思ってるんだ。



「日本語がどんどん壊されていく」と、今どき言葉に不満をあらわにする人々がいる。
おもに老人。や、俺ももう老年なんだが。
たとえば『全然』。
今は「全然おk」とか「全然いけてる」とかいうが、老人は「全然は肯定の言葉じゃない!」と吠える。
これ、明治の頃には肯定で使ってたんだよね。有名どころの作家も使ってる。
だから本来の自然な用法が戻ったと捉えてもいい。
『全然は肯定の意味じゃない!』と喚いてるそこのご老体。
あんた、脳までご老体。

『憮然』の意味を取り違えてる人が、なんと7割以上もいる。すげえよね。
じつは俺もかつては取り違えてましたーw
新聞その他の出版物でもそう。誤用されてる。
だが、国民の7割以上が誤用してるなら、もう誤用併用で良いじゃん、とも思う。
『新しい』も多分誤用が定着したんじゃねえかな。
『新しい』は『あたらしい』と読むが
『新た』は『あらた』だ。
音読み訓読みとは異なる『誤用が定着したケース』にもみえる。

『ら抜き言葉』があってもいいだろ。俺は使わんが、他人が使っても気にしない。
だからいつか『きつねにつつまれる』人が大勢出てくるかもしれん。
きつねにしてみれば「何で人間包まなあかんねん」だろうが。
だがそうなったとしたら、それが言葉の自然な変化なんだろう。
さまざまに変化を繰り返しながら、生き続ける『ツール』。



俺はこれほどの駄文を連ねねばダメなところ、なんと、ドラえもんは11分で表現しきったというではないか。
素晴らしいぞ、ドラえもん。
マット敷いて1日5回拝んでもいいほどだ。
これできっと俺の文章整理力も上がるに違いない。



問題の深夜討論番組の前日。
筒井氏のご母堂が亡くなられていた。
前日と言っても番組は深夜だ。臨終からたいした時間は経ってなかった。
その枕辺から離れての出演。
討論テーマは『表現の自由と差別』だった。

作家にとって言葉や表現の自由がどれほどのものか、察してくれ。



『言葉』は、ツールだ。
だから、『殺人道具』にもなる。
具体的に、現実に、他人の生命を奪うことが出来る。
剣になる。
『ペンは剣よりも強し』という言葉があるが、残念な意味でも、これは事実だ。
刃物など振り回さずとも、ペン1本で、あるいはキーボードをすこし押すだけで、人殺しが出来る。
剣よりたちが悪いことに、本物の殺意がなくとも死者が出てしまう。
いじめもパワハラも、人を殺す。
立ち直れないほどの深手を与えてしまう。
手を汚さないどころか、口に出して言わなくても、ただ文字にするだけでも。
どれほどの遠くからでも。
なんとおそろしいツールだろう。

だが、言葉は人を救う。
絶望した人を救う。
心を傷めた人を救う。
様々な苦しみから人を救う。

人を殺す道具として使われるより、人を救う道具になることの方が何億倍も多いだろう。
言葉に優しくなれば、言葉は優しくなる。
言葉に苛立てば、言葉も苛立つ。
使う者のすべてがあらわになる。
それが『言の葉』だ。



このツールをどう使うかは、使い手の価値観に委ねられている。
その意味が判れば、言葉の使い方もだいたい判るさ。

よほどの白痴でなければ、な。




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